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小間久商店は、ガラス・建材を通して地域社会に貢献して行こうと考えています。

TEL. 072-221-1899

〒590-0061 大阪府堺市堺区翁橋町2-5-14

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小間久商店の歴史について(創業者のこと) 小孫喜美子




 小間久商店も昨年90周年を無事終え、社員の方々には、次の目標に向かって努力して戴いて居ります事、嬉しく思って居ります.此の機会に小間久について私の知っている事を書いてみようと思います。

明治30年、祖父久吉が堺市寺地町に於いてランプの卸商として商売を始めました。当時家には、行灯(アンドン)を灯していた時代でしたが、オランダからランプ(洋灯)が日本に入ってきました。これからはランプの時代と見込み、早速大阪より仕入れ、堺、河内、遠くは高野山まで歩いて、荒物屋、油屋さん等へ見本を持廻った所、次第に注文が増えて来ました。
又、石津、浜寺、高石、泉大津、岸和田、貝塚迄商域を広げ、(有)日野商店さんはこの頃から既に手広く商売をしておられ、親しく御交際戴いていたそうです。朝早く店を開け、日の出の頃になると、飛脚さんが荷車で各店の荷物を積みに来る、業者や行商の方が買いに来てくださる、又、修理場を持っていたので、口金のいたんだのや、すすで黒くなったのが真新しくなるので一般の方も店先に列をつくっていたといいます。

母ヒサが、小学生の頃、昼食は何時も午後3時頃だったそうです。夜は翌朝出荷の準備をし寝る間もおしんで働きました。明治36年の日露戦争でロシアの捕虜が、大勢浜寺に来た時、収容所へ上等のランプを沢山納入したと聞いて居ります。祖父の人柄は温厚で人あたりも良く、人助けも随分しましたが、少し偏屈でお客さんが値切ると「うちはかけ値はしてません」といって品物を片付けたという事もよく聞きました。何と羨ましい話ですが、それだけ商品に自信を持っていたのでしょう。

そして36歳で父千太郎に家業を譲り隠居しました。御陵通りにささやかな隠居所を建て、庭には築山を造り、池に鯉を放ち、温室を置いて花を造り、土をこねて置物を焼き、花の家といわれたそうです。粋人で茶の湯をたて、三味線を習い、蝶ネクタイにスーツ、皮のジャンパー、支那服等を好んで着だそうです。小間久の屋号はランプ商は小間物の卸に属していたので小間物屋の久吉を小間久としたと聞いています。屋号にも久を入れ長女もヒサと名付け、自分は死んでも亦小間久へ帰り、商売を守るのだと口癖の様に言っていたそうです。

此の久の字が現在の3Qにつながり、今日の小間久がある様に思えてなりません。その後、時代も扱う商品も変わりました。其の時代、時代に小間久商店に従事した経営者は勿論、従業員の方々の智恵と努力と汗の結晶が積み重ねられました。会社の財産は土地やお金や商品だけではありません。大切なのは一朝一夕では出来ない信用と人材だと思います。更に90年という歴史は会社の大きな財産だと思います。やがて時代はランプから電球へと移り小間久もガラス食器の卸と電気製品を売る商売に変わり、そして戦後は板硝子建材の卸商となり現在に至りました。 社員の皆様呉々も御得意先様を大切に今後とも宜敷くお願い致します。

(1988年5月)

バナースペース

株式会社小間久商店

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