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小間久商店は、ガラス・建材を通して地域社会に貢献して行こうと考えています。

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〒590-0061 大阪府堺市堺区翁橋町2-5-14

こきゅう報から 小間久商店の歴史について(二代目のこと) DESCRIPTION based on LAW

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小間久商店の歴史について(二代目のこと) 小孫喜美子




 こきゅう報100号という事で、今回は小間久商店2代目の事を書こうと思います。資料や写真等は戦災の為焼失しましたので、母や主人、旧従業員の方々から聞いた話で、聞き違いや忘れた事もあり多少違いがあるかも知れませんが、戦後私が見・聞き・感じた事をありのまま伝えたいと思います。これは小間久商店の歴史の記録という様なものではなく、あくまでもお話としてお読み戴ければ幸甚です。

 母ヒサは小孫久吉(初代)の長女として明治30年(創業の年)に生まれ、弟2人が早逝した為、矢倉勝三郎の三男千太郎を養子に迎え、小間久を将来継ぐつもりでした。ところが久吉は二人の結婚を機に商売を全部譲り、自分は御陵通りに家を建て隠居しました。久吉36才、ヒサ16才の時でした。大正2年12月、二人は小間久硝子店(当時の屋号)を年若くして継承しました。店は当時硝子食器の卸を主体として、板硝子、電気器具を扱っていました。硝子器は1月・2月の寒いときに仕入をし(低値の為)、6月〜9月の夏場に売るといった商法でした。一般商品(コップ、小鉢、皿、瓶・・・)は型物と呼ばれ製造工場と直接取引し、船で堺の港に着いたのを荷車で運んでくるものや、陸上をトラックで運んでくるものもありました。酒造会社の倉庫(建坪300坪位)を譲り受け、割れ物の為、藁で荷造りされたものを天井近くまで積み上げたと聞きました。冬場にかなり沢山の在庫を持った様です。手磨きや色きせの高級品や舶来品は専門の特約店から仕入れていました。売先は硝子屋さん、瀬戸物屋さん、金物・荒物屋さんへの卸売りが主体で、学校や研究室へは実験道具を売り、食堂、喫茶店、お菓子屋さん用のものへと商域を広げ、これらの店の開店時には家具、陶器以外はたいてい小間久で揃ったという事です。

 大正時代は不況が続き、7年には各地で米騒動が起こり、12年には関 東大震災があり、世相はあまりよくなかったにもかかわらず、小間久の商売は順調にのびていきました。夏場は卸の配達が忙しい上に、お得意先の食堂が大浜や浜寺の海水浴場に出店を出しますので毎日何往復も配達したそうです。それでも店から自転車で5分位で海岸線に出ましたので、お昼休みにはよく皆で泳ぎに行ったという話も聞きました。

 店は初代から引継いだ寺地町の山の口筋にありました。当時の板硝子の商売については、建具屋さんの木製建具に硝子を入れたり、学校関係の硝子入れや、各商店や家庭の割替、鏡といった小売業でした。又ランプから始めた店ですから、電燈がついてからは電気器具を扱い、冬場の大切な売筋商品でした。戦後、母がコードをつないだり、電気ヒーターの修理を手際よくされるのを見て感心しました。小間久も最近電気製品を売っていますが、私は硝子屋が電気製品を売るとは時代も変わったものだと思っていましたが、小間久の場合は昔日に帰ったわけで、売るのが当然の事でした。当時は組合にも入っていたそうです。

 父は当時としては背丈もあり、骨組みのガッチリした体格の人で、人情味ある親分肌でした。自他共に認める酒豪家で、自分も飲むが人に飲ますのも大好きでお正月には家に四斗樽を並べて振る舞ったそうです。花見酒、月見酒、雪見酒、竹の子掘りに松茸狩りにと、四季折々機会を作っては皆と飲むのを楽しみにしており、家へもよく客を連れてきた為、母は年中酒の肴の用意はしてあったという事でした。平和なよき時代だったのでしょうね。普段は人一倍よく働き、動きが早いので近くに居る人はじっとしていられないと言っていました。又、理にかなったよいお話をされるのですが、非常に口うるさく言うので家族やお店の人からはかなりうるさがられていたようです。私がよく言われた事は「仕事をするときは先づ足もとの廻りを片付けてからかかれ」という事です。物をよけて通ったり、いちいち越えて歩いていたのでは仕事が敏捷に出来ない、又、躓いてこけたり、怪我をする足もとは何時もきれいに片付けておけということです。たくさんある中の1つだけ書きましたが父らしい教訓だと思います。夜は近所の旦那衆とお茶、花、小唄、踊りとお稽古に出るそうですが、そこへ行かずにお茶やさんで芸者遊びをしていたというエピソードもよく聞きました。誰とでも気さくに付き合いの出来る社交性に富んだ父でした。

 母はふくよかで物腰も穏やかな温厚な人柄でした。毎日店に出ており多種ある商品の値段入れから管理一切を引受けていたそうです。大きな世帯を長い間、取り仕切って来た芯のしっかりした人でした。子供は7人生まれましたが、育ったのは4男楠次と3女千代子の2人で5人も亡くし悲しい思いをした事と思います。個性の強い父に仕え、父とは一度も争い事をした事が無いと言っていた事からも窺える様に非常に心の広い人でした。戦後は全く裏方に廻り、孫の世話や、住込みの社員さんの食事の手伝い等、随分私を助けてくれました。平成元年4月2日、僅か4カ月の患いで満93才の寿命をとじました。家付きの娘として生まれ、商売一筋の生涯であり、孫5人曾孫11人のやさしいおばあちゃんでもありました。

 昭和12年、支那事変勃発し、その後戦禍は次第に広がり、遂に大東亜戦争に突入しました。小間久商店の社員さんが次々に召集され(戦死された方もおられます)、遂には1人息子楠次までが戦地に応召され、店は女ばかりとなりました。山の口商店街にある店の多くは息子さんや店員さんが召集され、売る商品も少なくなってきた上に、空襲警報に悩まされ、次々と店をしめていきました。そこに目をつけた父は古物商の免許を取得し、店閉いの商品を店丸毎いくらという値段をつけて買取り、陳列の硝子や鏡は皆枠からはずして御陵通りの屋敷内へ運んでいました。皆が売る中でどういう気持で買いに出たのか、今は聞くすべもありませんが、度胸があったのでしょうね。そしてこれ等が戦後の小間久復興のもとになりました。或いは先を見抜いていたのかもしれません。又、御陵通りに大きな防空壕を掘り食器類を沢山入れてありました。家具、衣類等は疎開させ、米、野菜作りにと父の一生で一番の忙しい毎日であったでしょう。20年3月14日大阪空襲があり、硝子食器の特約店も殆ど焼失した為、大阪から注文が入り、在庫していた高級商品が一掃され、かなり手許がゆっくりした様です。併しこれも束の間20年7月9日22時38分敵機B29は和歌山方面を焼夷弾攻撃した後、翌早朝1時30分頃大阪湾上より堺市の南西に侵入し、東北方面を斜に通過しながら焼夷弾攻撃を行い瞬時にして大浜、龍神(堺駅の近く)宿院一帯は猛火に包まれました。それから約1時間半にわたり、主として油脂及び黄燐性の焼夷弾を投下したので、旧市内は完全に火の海と化し、龍神方面の橋の下は水を求めて逃げて来た人達の死人の山でした。小間久も家も、店、倉庫、貸家すべて全焼し、家族3人やっとの思いで父の里(今の菩提町)へたどり着いたそうです。御陵通りの家が焼け残ったのを知ったのは後の事でした。それからは皆さん御存知の様に長崎、広島に原爆が投下され、20年8月15日終戦となりました。

 近衛将校として軽井沢で貞明皇太后様の警固に携わっていた楠次(先代社長)は、軍籍解除と同時に堺へ帰り、焦土と化した小間久の上に立ち、家族の行方もわからずただ茫然と立ち尽くしたそうです。20年9月某日のことでした。家族の安否を尋ねにいった父の里で、父母妹と再会し、無事を喜び合いました。この後御陵通りへ帰ったのですが、お金は封鎖され、国債は紙切れ同様となり、途方に暮れたそうです。併し次第に復興が進むにつれて、御陵通りに入れてあった大板硝子が売れはじめました。市場には硝子が非常に少なかったので、古い硝子で少々傷がついていても寸法さえ合えばよかったのです。6入・7入の大きさのものが多かったです。その頃は闇市場が繁盛し、ブローカーが活躍した頃です。防空壕に入れてあった食器も、ブローカーの人が来て京都の卸店へ売ってくれました。これは私が来てからも続いていました。当時の世情は米・野菜・調味料等はすべて物々交換でしか手に入らず、人々はとうもろこしのパン、いもずる、雑炊等を食べていました。併し父が米や野菜を作っていましたので、家族の者はあまり不自由な生活をせずにすみました。

 私がお嫁に来た日の事をお話しします。当時の小孫家の様子、父の人柄等がよく分ると思います。昭和21年5月6日、花嫁が小孫の家へ到着した時、玄関で出迎えてくれた父が「花嫁さんがきはったで」と何回も奥へ向かって言いながら、左手に扇子右手に白いハンカチを持ち、あふれる涙を拭きながら座敷の中をくるくる廻っておられた姿が今も新鮮に私の瞼に焼きついています。ところが花婿さんがいませんので皆大騒ぎしていました。その時花婿は早く店を造ろうと小さいバラックの屋根の上で、瞬時を惜しんで瓦を並べていたのです。母はやっと手に入ったお魚を皆さんに召上がって頂だこうと一生懸命に料理をしていました。二人共時間のたつのを忘れていたのです。ちなみに花婿と花嫁の出会いはその日が3回目という時代でした。

 父が亡くなったのは昭和24年10月6日。父と暮らしたのは3年5ヶ月という短い月日でしたが、22年3月に長女、24年4月に長男(現社長)が産まれた時も大変喜んでくれました。併しその半年後尿毒症にかかり亡くなりました。そして父は、最後に2つの事を残してくれました。その1つは、現在の本社の土地を「将来広い道がついて良くなる」と言って捜して来てくれました。市の区画整理の図面を調べに行ったところ確かにそれらしき点線が引かれていたので、主人は早速購入し、昭和23年15坪の店を建てこちらへ移り商売を始めたのです。2つ目は「早い時期に小間久は会社組織にした方がよい」と何度も言い残しました。主人も前から考えていた事でしたので、父の死を機にすぐ準備にかかり、2ヶ月後の昭和24年12月1日株式会社小間久商店を設立しました。 硝子店としてはかなり早い改組でした。これから先の時代を見抜き、小間久の将来を考えた父の、ただ一つの遺言であったと私は思います。戦災で全てを失くした後の59才での死、まだまだ仕事がしたかったでしょう。勿論好きなお酒も飲みたかったでしょう。父は戦後の小間久の復興の足がかりを作って下さいました。表の道路が中央環状線として全線開通した時、父が生きていたら、どんなに喜んだ事でしょう。綿谷章二さんは父の代に兄さんと御一緒に勤めておられ戦後も長い間手伝って下さいました。赤尾國二さんも父とは約2年間一緒でよく手伝っていました。赤尾さんの働き振りの良いのや道具を大切に扱うのは、かなり父の影響を受けていると思われます。御二人とも御苦労様でした。

 初代久吉は早く隠居しましたが、常に小間久を陰から見守っていたそうです。屋号に久の字を入れ、自分は死んでもまた小間久に帰り商売を守るのだと口癖の様に言っていたと母が話してくれました。その後、歴代の社長は揺るがぬ基盤をつくるべく努力を続けてきて居ります。役員をはじめ、幹部の方々の協力と思考力、社員の方々の努力と実行力、家族の皆様の暖い御支援が更に大きな力となり小間久を支えて下さって居ります。私は会社の財産は、土地や、お金や、商品だけではない、一朝一夕では出来ない信用と人材だと何時も思っています。社員の皆様、有難うございます。また御得意様の発展が小間久の繁栄、永続につながる事を思い大切にサービスに勤めましょう。各方面から信頼される小間久商店である事を、私は何時も祈り続けています。社員の皆様、今後とも宜敷くお願い致します。こきゅう報も松本一郎さんの提案で名称もこきゅう報と決まり、松本さんが編集長となり、社内の調和、団結を願って第1号が昭和63年1月28日に発行された時、私は言葉では言いつくせない喜びを感じました。毎月楽しんで読ませて戴いています。その後を引き継ぎ、100号を迎える迄続けて下さった及川さんはじめ担当の方々には感謝しています。この後もご苦労をおかけすると思いますが、宜敷くお願い致します。

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